シニアオートキャンパー 日頃

旅や日常の小さな出来事を綴ります。

1970年代 仙台の思い出 ROCK JAZZ

私は27歳で宮城県から山形県に嫁ぎました。

高校はとても校則の厳しい学校で、ビートルズなんて口に出すものなら大変な事になりました。

タイガースのコンサートでさえ、行く者は退学ですと言われました。

しかし、ビートルズの映画を見に行って見つかり、指導を何回も受けてた事を思い出します。

今なら考えられない話しですね!(笑)

ロックは不良の音楽と言われてました。

中学2年からビートルズに夢中になり、この学校に通うのは苦しいものでした。

在学中は家と学校の往復だけで、楽しみはレコードを聴く事だけでした。

卒業した時は本当に嬉しかった。

1972年だったような!?

 

私の青春は仙台にありです。

卒業して一番最初に行った所は、一番町にあったビートルズ喫茶でした。

名前を忘れてしまいました。

勿論ビートルズの曲のみ流していました。

友人と話しをしコーヒーを飲むと言う事だけで本当に楽しかったです。

やっと自由になれた気分でした。(笑)

 

その頃はもうビートルズは解散していて、ハードロックがメインになっていました。

ビートルズ喫茶に慣れてから、次に行った所はロック喫茶ピーターパンです

流石に一緒に行ってくれる友人はなく、気合を入れて一人で行きました。

店に初めて入る時はもうドキドキでした。

なんせデパートに行くのも、学校の許可が必要だったので!

親の捺印、何を買いに行くか生徒手帳に書き学校に申請許可が出ます。

監獄か〜って感じですね!(笑)

ましてや喫茶店など、絶対行ける場所ではなかったのです。

今でもピーターパンは国分町にあります。

息子さんの代になってました。

震災前に一人で実家に行く用事があり、思い切って行ってみました。

昔と変わらず、少し急な階段を登り、扉を開けて椅子に座る。 

マスター一人でした。

昔と変わっていたのは、パソコンが置いてあった事と、そんなに爆音でなくなっていた事です。

座わって1曲が終わると、ビートルズの曲が流れたのです。

もう感極って!泣いてしまいました。

マスターは私を覚えていてくれたのです。

そして私がビートルズが好きだった事も。

もう懐かしくて、懐かしくて

なんとそこで、ゆっくりマスターと話をしましたのは初めてでした。

あの当時あまり女性はいなかったような!

だから覚えていたのかもしれない。

昔店内は爆音で私語禁止でした。

それが暗黙のルールでした。

唯ひたすら聴く!

なんせ話ししたとしても聞こえないので会話は不成立です。

一杯のコーヒーで3時間いるのは当たり前でした。

一度店から出て、時間経ってから再入店などしていました。

休日は一日2回行ってた訳です。

お金もないので、レコードは高くて買えなかった。まだ働き始めたばかりだったので!

店で聴いて良かったら買う感じでした。

音に飢えてました〜

一日聴けるピーターパンは私の最高の居場所でした。

給料もらえば、すぐ名掛丁レコード屋に行き何枚も買っていました。

それから19歳の時、レッドツェッペリンピンク・フロイド、シカゴと続けて体験しました。

東京武道館にも初めて行った訳です。

田舎者で全くセンスもない、背伸びしていて、ただツッパっていただけでした。

あんなに真面目だった私は、凄い変身を遂げました。

 

それと同時進行でジャズ喫茶にも行ってました。

マル、スィング、アヴァンです。

仙台には相当のJAZZ喫茶がありました。

ジャズはロックより歴史は長く奥が深いのです。

ジャズ初心者の私にとっては敷居が高かったです。

ジャズ喫茶も勿論爆音です。

タバコの煙が満ちていて、暗い店内、大人の世界で私には刺戟的でした。

入りにくかったけど、純粋に何でも音を聴きたかっただけなんです。

最初は慣れずいつも緊張して聴いてました。

今かけてる曲はこれですよ!と、レコードが立てかけありました。

あとは本を買って、ロックやJAZZを勉強するしかなかった。 

誰とも話しできないので、教えてくれる人もいなかった。

ほんの少しの間ですが、アヴァンでアルバイトした事があった。

ドアを開けてすぐの所に大きなスピーカーがありその前に私は座っている。

お客様が来たらオーダーを取りに行った。

バイトも初めてでした。

その情景を今でも思い出すのです。

裏の丸光デパートにレモンを買いに行った事なんかも。

 

そして話は変わりますが、会社の飲み会となれば、居酒屋ではなくディスコでした。

若かった!(笑)

ここではソウルミュージックを聴き、深夜まで踊っていました。

全ての音に溢れていた青春てした。

 

私の通っていたジャズ喫茶は、もう無くなってしまいました。

しかし閉店する前に一度アヴァンにも行った事がありました。

マスターは変わっていた。

新しいマスターも私を覚えていてくれました。

懐かしかった。

何もジャズを知らない小娘が、フリージャズのメッカのアヴァンに行った事は、今考えると無謀な事だったと思う。(笑)

確か先にスィングとマルに通ってからアヴァンに行った。

しかし範囲が広すぎる。

かじっただけでした。

しかし未だにフリージャズの方が、しっくり来ます。

真剣にJAZZを聴いたのは結婚してからです。

CDを買ったり、レンタル出来るようになったので聴く事が出来たわけです。

有名どころはみな聴きました。

アヴァンのマスターは、こんな私を打ち上げにも参加させてくれてたり、可愛がってくれたような!?(笑)

あの時代は兎に角新鮮で、何もかもがエネルギッシュでした。 

しかし恋愛をすれば店からも遠退きました。

そして結婚して仙台を去った訳です。

しかし私の土台はこの時代に作られました。

 

私は2000年にロック・バーを開店しました。

借金をし改装しお店を出しました。

しかしお酒を出す仕事は私には向かず、田舎なので繁盛したのは最初のニ年だけでした。

店の借金はある訳で必死でした。

店をやったきっかけで、ライブをしたいという人達が多くいて、ライブハウスにシフトして行きました。

何もかもが未経験でした。

しかし今思えば、とても良い経験をさせて頂きました。

ただのロック好きのおばさんから、ライブハウスやるなんて想定外でした。

しかし何も苦にならなかった。

好きな事をやってる充実感がありました。

家族に迷惑かけないように、家の事も頑張りましたが、やはり駄目な事も沢山ありました。

防音も自分でやりました。

音響も自己流でその時覚えました。

地元バンド、東京からバンドを呼んだり、アメリカのバンドを連れてきてもらったり、ツアーバンドも来たり!

もう自分でもよくやったな〜と思っています。

音響、セッティング、リハ、本番

力仕事でした。

全てド素人。

みんなに助けてもらいながら、勉強し覚えて一人でやりました。

しかし本当にやりたかった事は、ロック喫茶でした。

ライブハウスは成り行きだったのです。

借金は恐ろしいです。

返さなければいけないのですから!

しかし、皆さんに店を使ってもらったお陰で、短期間で返す事が出来ました。

そして震災です。

娯楽は出来ない状態で見通しがつかなかった。

きっぱり辞めて、全て器材を残し店ごと若者に買って頂きました。

彼の方が絶対うまく行くはずです。

私はド素人!

ただのロック好きなおばさんだったので!

しかしその時はほっとしました。

これで終わったと。

田舎なので生で音を出せる場所がなかった。

みな音に飢えてました。

昔の私と同じだったのです。

あれから10年が経つ。

そしてこのコロナです。

今はすっかり年を取ってしまいました。

何も出来ない私でしたが、音楽とファッションだけは好きで長く続けられました。

 

今はまた音楽事情が変わりました。

あんなにあったレコードやCDも全て断捨離しました。

その為音を聴くツールはサブスク

AmazonMusicになってしまいました。

簡単に聴けるのはいいですが、簡単は感動がないです。

貪欲に勉強しなくても手に入る音、頻繁にあるライブ、それも勿論良いに決まっているのですがね〜

昔のほうが良かった。

これを言うと年寄り臭くなります。

しかし関連付けで新しい音が次々聴ける。

時代は変わって行くのです。

私はもうこれで良いと思っています。

あの世にはCDを持って行けませんから!

死ぬまで新しい音を聴いて行きたいと思っています。

なんだか、思い出よりも生い立ちになりました。

失礼致しました。

 

 

 

45年も前の話しでした。